宗田理の学歴・経歴まとめ!小説家になった理由やきっかけも!

宗田理の学歴・経歴まとめ!小説家になった理由やきっかけも!
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主に「ぼくらのシリーズ」で有名になった小説家の宗田理さん。

宗田理さんの経歴や学歴を調べてみると、実は昔から小説家を目指していたわけではなく色々と面白い事実が発覚しました。

今回は、宗田理さんの学歴や経歴をご紹介すると共に、小説家になった理由やきっかけもまとめてご紹介します!

目次

宗田理の学歴は?

 

宗田理の学歴は?

 

宗田理さんは小説家として知られていますが、まずはどのような方なのかをwiki風プロフィールとしてまとめてみました!

 

【名前】宗田理

【生年月日】1928年5月8日

【年齢】95歳

【出身地】東京都世田谷区生まれ / 愛知県西尾市出身

 

気になる宗田理さんの学歴についてですが、調査したところ、日本大学藝術学部映画学科を卒業していることがわかりました!

 

宗田理の学歴は?

 

偏差値は、宗田理さんが就学中の当時はどれくらいだったかまではわかりませんが、現在の芸術学部全体の偏差値は45.0〜57.5で、映画科の偏差値は50.0〜55.0です。

 

日本大学の芸術学部を卒業した芸能人はとても多く、一例としては

 

瀧波ユカリ(漫画家)
加藤一華(YouTuber)
有安杏果(元ももいろクローバーZ)
高梨豊(写真家)
大石芳野(写真家)
飯沢耕太郎(写真評論家)
篠山紀信(写真家)
齋藤康一(写真家)

 

など、世界的にも知られている方も日本大学の芸術学部を卒業していたことがわかります。

 

宗田理の学歴は?

 

宗田理さんは、芸術学部を専攻したきっかけとして、アメリカ映画に衝撃を受けて「いつか映像の時代が来る」と思ったことから日本大学の藝術学部映画学科に入学することを決めたようです。

実習ではシナリオを書くという本格的な授業もあったようで、その中で『雲の果て』という作品を書いたのですが、当時講師として来ていた松竹映画専属のシナリオライターである八木沢武孝氏の目に留まり、『江古田文学』に掲載するよう推薦されたようです。

ただ、その頃の文芸学科の学生たちには「シナリオは文学ではない」という風潮が強かったため当初は掲載を拒否されてしまったのですが、『江古田文学』には映画学科からも製作実習費が出ていたことから映画学科の学生たちが抗議し、その甲斐もあって映画学科からは宗田理さんの作品だけ何とか掲載されたとのこと。

 

宗田理の学歴は?

 

『雲の果て』で注目を浴びたその後、宗田理さんは八木沢武孝氏から依頼を受けて助手を務めるようになり、やがて摂津茂和原作の映画『台風息子』の脚色の下書きなどを書くようになりました。

当時まだ宗田理さんは実績もなく無名だったため、クレジットは「宗田理」としてではなく「八木沢武孝」のクレジットで配給されています。

 

宗田理が小説家になった理由やきっかけは?

 

宗田理が小説家になった理由やきっかけは?

 

宗田理さんは、大学生当時は映画にとても深く興味を持っていたので、おそらく当時はまだ自身が将来小説家になるなんて思ってもいなかったかと思います。

ですが、八木沢武孝氏の助手を務めてしばらく経ってから八木沢氏の仕事が減ってきたこともあって、大学時代に教授から勧められて参加を約束していた、森脇将光氏の出版事業『森脇文庫』の編集業に加わることになったのです。

そしてこの編集業に関わったことが、後に小説家を目指すきっかけになりました。

 

宗田理が小説家になった理由やきっかけは?

 

宗田理さんは、森脇氏から週刊誌を出すように言われ、若くして週刊誌『週刊スリラー』の編集長を務めて創刊。

 

しばらくはこの週刊誌の編集長として仕事をしていたのですが、森脇氏は森脇文庫を突如辞めてしまいます。

その後宗田理さんは数人と共に企業のPR会社を興し、主に自動車会社のPR誌などを作るようになります。

さらに、1970年後半頃、カズノコが高騰し、その原因について詳しく調べていくうちに水産業界の裏の実態を知り、この水産業界の裏の実態をテーマにした『未知海域』という作品を発表します。

 

宗田理が小説家になった理由やきっかけは?

 

この『未知海域』という作品は、情報小説として高く評価され1979年に直木賞候補となったのです。

宗田理さんは、この『未知海域』が直木賞候補となったことをきっかけに小説家として活動を開始するようになりました。

 

宗田理の経歴は?

 

宗田理の経歴は?

 

本格的に小説家として活動を始めた宗田理さんは、『ぼくらの七日間戦争』を手掛けて大ヒットしました。

このシリーズを手がけるきっかけになったのは、東京タイムズで連載した『少年みなごろし団』がトクマ・ノベルズから刊行され、大人向けに書いたものであるにもかかわらず子供に受けたのです。

そしてそのうちの一人である当時小学生だった角川書店の編集者の娘からの推薦がきっかけで宗田理さんに声が掛かり、それが『ぼくらの七日間戦争』を書くきっかけになったとのこと。

 

宗田理の経歴は?

宗田理の経歴は?

 

『ぼくらシリーズ』は瞬く間にヒットし、2001年までに累計発行部数が1500万部を数えるほどとなり、さらに上の画像のようにシリーズ1作目の『ぼくらの7日間戦争』に関しては実写映画化やテレビアニメ化までされています。

 

宗田理さんは小説家となってからは亡くなるまでずっと小説家として『ぼくらシリーズ』の執筆を続けてきましたが、大学卒業後の経歴を振り返ると、

 

【宗田理の経歴】

 

日本大学在学中、八木沢武孝の依頼で助手を務める

「森脇文庫」の編集業に加わる

週刊誌『週刊スリラー』編集長を務める

PR会社(自動車会社メイン)を設立

1979年『未知海域』が直木賞候補となり、小説家として活動

 

このように、宗田理さんが小説家になるまでの経歴は上記のようになります。

 

まとめ

 

宗田理の学歴・経歴まとめ!小説家になった理由やきっかけも!

 

今回は、小説家の宗田理さんの学歴や経歴をご紹介するだけでなく、小説家として活動をした理由やきっかけも幅広くご紹介してきました。

宗田理さんの手掛けた『ぼくらのシリーズ』は本当にたくさんあるのですが、特にシリーズとなる一番のきっかけになった『ぼくらの七日間戦争』は、実写映画化やテレビアニメ化までされた超有名作です。

まだ見たことがない方は是非見てみてください!!

 

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